苟のおしゃべり

私が考えた事を好き勝手に話します

自分が感じること

皆さんこんにちは!

苟(まこと)です。

ご訪問ありがとうございます。

 

暑い日が続いていますが、数年前、同じ気温でもこんなに暑かったかしら?と思う日々です。もしかして、暑さが増したというよりは、寒さが強くなったからこそギャップで暑く感じるのか…やっぱり寒冷化というのはあるのかな〜?と感じます。

気候に関しては世間がどう言ってるか、という事も無視できないのは確かですが、ただみんなが言っているからと言うことだけではなく自分が感じる事も大事ですよね。

 

と、いうことで今日はそんな話題です。

 

最近では科学的に証明された事もあり有名になりつつありますが、皆さんは生まれ変わりについてどのくらい信じていらっしゃるでしょうか?

仏教では輪廻転生ともいいますよね。

というか、そもそも信じていらっしゃらない方もいらっしゃるとは思います。

当たり前ですよね。誰も死んで試す事は出来ませんから笑

 

私は中学生くらいの時から、ずっと、なんと表現して良いかはわからなかったのですが、この世の果てまで行けば皆んな繋がっているというか、そういう皆んなが繋がる大元のような存在があるんじゃないかなあと感じることがありました。

 

死んだら記憶はどこへ行って、命はどこへ行くのか?

 

と言うことを考えられたことがある方はきっと多いと思いますが、私もそんな考えの中で、命は環のように連なって、皆の感情や記憶や魂というか精神というのは一つの場所に繋がっているように感じていたんです。

 

14歳の時に私はある人と出会いました。Twitterを拝見してくださっている方はわかるかと思いますが、私の尊敬している方です。

 

その方は前世を見ること通して今の精神的な問題を解決するという方法を使われていて(いわゆる一種の、催眠療法ですね)私は当時、そういう経験を通して、また、生まれ変わりの話についての本を読んだり、その方から他の方についてのお話を聞いたりして、転生について信じるようになりました。

 

そして、その方は同時に神の存在についても信じていらっしゃったのですが、私はそこで、少し疑問、というか違和感を抱くようになったんです。

 

神は居ない、とまでは言わないのですが、私の中で神、天使、人間というのは…まるで魂の序列のように感じたんです。

神は絶対的で人間を罰したり戒律を決めたり、善悪を決め、常に監視している。という点で、今の支配層と何も変わらないように感じたと言うか。

ただ支配層が、神と自分の姿を近づけて刷り込んで、自分たちの行いを正当化しているように感じてしまったんです。

 

ですがその当時は、その方を深く信じていたので、盲目的になっていた部分もあり、神の存在を私も信じました。

けれど、やっぱり、自分が心で感じた事というのはどこかで引っかっていたみたいで、その方と意見の相違が少し起こるたびに、自分の感じた違和感を思い出しては悩んでいました。

 

 

それから、時間が経って確か18歳になりたての時でした。

自分が感じていた事を、全く同じように書いている本に出会ったんです。

 

その本では命を含むエネルギーには大元の存在があり、輪廻転生はあるが、前世というよりは魂の大きなエネルギー体から必要な記憶を取って生まれてくるだけ(=結果的にそれが前世という風に言われる事もある)であって、

 

ある人が生まれ変わって、自分になる

(例:新撰組の〇〇の生まれ変わり的な)

というより、

みんなの記憶は同じ一つの場所(大元)に還って、そこから今世生きる為に必要な記憶をそこから得て生まれてくる、という感じに書かれていたんです。誰の彼のというよりは、記憶は大海の一滴というニュアンスなのでしょうか。

 

あと、簡潔にいうと神はいないと……笑笑

(言い方アレですけど)

 

それを読んだときに、私はとてもスッキリしたんです。

要するに「やっぱりね!」と納得したというか…。

あっという間に、その方から教わっていたことの中で違和感を抱きつつ信じていた事が心から抜けたような気分でした。

 

なので、やっぱり、自分の感じる事というのはとても大事なのだと思います。

いくら、すごい人があらゆる根拠を並べて言っていても、自分が違和感を抱いている事を無理に信じる必要はないのかな〜と。

 

もしそれで何かしら間違った方向へ進んでしまっても、それは自分の人生において必要な経験必要な回り道であって、本当に進むべき道があるなら恐らくどこかで壁にぶち当たって戻ってくるはずなので…。たぶん。笑

 

私もまだ十九年ちょっとしか生きていないので、全然分からないのですが、

自分より経験があって、尊敬できる方が口を揃えて言っていたとしても、すごく立派な本や研究があったとしても、自分にとって違うものは違うと思って良いのかなと思います。

怖気付く必要は少しもないのだと。

『私はこう思う』ということについて遠慮をする必要は少しもないというか。

 

私は結構(昔からの刷り込みの副作用なのでしょうか?)『目上の方』という存在に弱くて、

目上の方が仰る事を『間違っている』と、なかなか堂々と思えないんです。

自分自身の未熟さを理解しているので、青二才の自分の考えで否定していいんだろうか?と心の中でまで言い訳してしまうくらい…笑

でも、同時に譲れないものは譲れない性格でもあるみたいで………。

割と難儀な性格なのですが、よく考えてみると、そういう矛盾を抱く必要も本当はない気もするんです。

 

私のこの矛盾の根底にはつまり、

(簡単に言うと)

 

目上の人の考え=正しい

 

という刷り込みがあるわけですが、この考えは年功序列を正当化する為の方便という側面もきっとあると思います。

 

年功序列とは、つまり年齢という概念をピラミッド型の構造として捉える考え方ですよね。

現代だと、思考停止になっても年齢を理由にそれを正当化できる、格好の言い訳に成り下がっている気もしますが。

 

ではそもそも、年齢の意味とはなんでしょうか?

 

年齢を重ねる=成熟

ではないことは皆さんもよくよく、とてもとてもわかっていらっしゃると思います。

 

つまり、年齢を理由に物を言うというのは、

ある程度年齢を重ねたのに精神的には子供時からほとんど成長しておらず、自分の常識に固執し続けたいという人や、

思考停止のまま生き続け自分の中に誇るべき点が一つも無い人が、自分を正当化しようとした、浅知恵から生まれた産物と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。(少し言い方が良くなくてすみません)

 

つまり、年齢は一つの基準であって、それ以上でも以下でもないように思えます。

そうでは無いのかもしれませんが。

(若い頃というのはこういう風に、どうでもいい事に噛みつきたくなるんですかね…笑)

 

しかし、こうして細かく噛み砕いて整理してみると、小さな刷り込みがこうして自分の価値観を変える大きな判断にまで影響しているという事を感じます。

 

なので、やっぱり、自分の軸を持ち、他人にその軸を揺るがされない、というか他人に左右されない為には、自分の感じる事を大切にしていくことはとても大切なのだと思います。

 

最近特に、そう感じることが多くて、色んな方とお話しすると益々、その思いが深くなります。

体や、思想は支配することができますが、感じることは支配されません。誰も他人の感覚を支配することはできないと思うんです。

感覚の大切さをみんながもっと理解して、そんな真実の感覚の中から少しずつ本来の自分、本来の感情、思考のかけらを少しずつ集めてゆけばいずれもっと多くの人が本来の自分を知り、生きやすい生き方を見つけて、良い社会ができていくのではないかな〜と思います。

 

そうなったらいいな╰(*´︶`*)╯

 

では今回はこの辺で〜